City Lights

from kyoto

孤独を連れて

女のいない男たち(村上春樹)

 

ある日の雨は側溝にただただ流れてゆく。

彼らは生まれ落ちた瞬間に、暗闇へと落ちてゆく。

小説というものの定義が数多あることは知っているが

大体のものは側溝に流れゆく雨を、

手で掬うような行為のことだ。

放っておけば誰にも語られることのない、

雨粒の物語を、

それが汚いとか神聖だとかは抜きにして。

 

男は女を求める。

女は男を求める。

生物学的に?必然的に?

引っ張り合うだけの関係ではない。

恣意的に?刹那的に?

 

無意味さをある程度の質量で引き連れて。

孤独をある一定の体積で引き連れて。

遠すぎる目的地が実は二歩先にあったりして。

 

おれはこの男に惚れたんだぁ間違いねえ

 

男の愛(町田康

海道一の大親分 清水次郎長のお話

もはやストーリーは説明不要やけど、

清水を追われたから西へ向かって、そんで修行するぜってところまで。

 

町田康が描けば、全員があほになるが、

全員が愛しく思えるものです。

小説の中で人が動き始めるのは、人が動き始めるまで待つから。

読んでいると時間の経過がなんかわかる。

頭の中の言葉がずらーっとわかる。

崖の上か下かの話

崖の上のポニョ宮崎駿

 

崖の上のポニョ」がめっちゃ好き。

初めて観たのは劇場で、たぶん高校2年だったと思う。

魚なのに人間の血が混じって半魚人となったポニョ。

ポニョは魚でもない、人でもない存在。

そんなポニョもポニョとして、宗介が「ポニョはポニョだもん」と受け入れるお話。

 

なんとなく人のことを血で見ている僕たちにとっては、

ハーフが差別的だからダブルと呼ぶのだと決めた僕たちにとっては、

出自とか血筋とかルーツとかそういったものが

ペリッと簡単に剥がれる付箋のようなものなんだと教えてくれる。

 

僕たちは色々なバックグラウンドを背負っている。

そういうものは大人(リサ)が理解しているけれど、

子ども(宗介)はそんなことよりも目の前の存在である。

とっても素敵だよね。

 

目の前にポニョが存在していたら、僕はなんて言うだろう。

「お前は何者なんだよ」と言っちゃうのかも。

大人になればなるほど「何者」かわからない存在って怖いよね。

勝ってはいけません。

「勝ち組」「負け組」

最近聞かなくなったなあと思った。

10年くらい前はなんでもかんでも「勝ち組」やということにして、

ポジティブに生きていたのかもしれない。

「負け組」の自覚が、

「組」という言葉で薄れるのを期待していたのかもしれない。

とりあえず連発してたよな。

 

昔国語教科書の一節にあった言葉。

うろ覚えなのでちょっと違うかも。

「戦争に勝ち負けはない。戦争した国はすべて負けさ」

 

勝ちとか負けとか、

正義とか悪とか、

そういうものさしで生きてはならんのだ。

生きるとはもっと複雑で多層的だ。

ウクライナ危機で危機に陥っているのは、

その正義とか悪とか、善とか悪とかのものさしである。

それで測ろうとしていたものが、

そもそも測れないのだと知ることになる。

その意識が遠のく前に

EUREKA(青山真治)

 

もしそのときが来たら僕はこの映画を思い出す。

何かを断ち切るように

何かから逃れるように

でも溢れてしまったものは掬って

 

そんなことをして、この映画を思い出そう。

僕たちはいつも前だけを見ているけれど

耳は澄ましておきたいのだ。

 

青山真治監督のご冥福をお祈りします。

素晴らしい映画をありがとう。

リメンバー・ミー

リメンバー・ミー(リー・アンクリッチ、エイドリアン・モリーナ)

 

 

メキシコの死者の日をモチーフに家族を描いた映画。

オスカー長編アニメ賞をはじめ、数々の映画賞を獲得した最早説明不要の大傑作。

日本にもお盆という文化があるのでとてもすんなり受け入れられる。

 

 

家族というのは絶妙な共同体である。

血の繋がり、というとなんだか薄っぺらく

絆、というと作り物のような気がする。

家族の根源は「誰にも代え難い」ことではないか。

ある日家に帰ってきたら知らない男が食卓に座っていて、

「今日はお父さんが仕事で忙しく帰るのが遅くなるので代理で父親やってます」

なんて言い出したらどうリアクションを取ればいいのか。

 

そして、きっとみんな家族の中で「誰にも代え難い」存在であると同時に、

この社会においてもそれを求めている。

10円が大切だったあの日

幼い頃、僕の家での役割はお風呂掃除だった。

毎日お風呂を掃除して、10円を貰っていた。

10円というとラーメン丸1つ。あるいはきな粉棒1つの値段。

その10円たちを握りしめて、「ヒロセ」と呼ばれる駄菓子屋に行くわけだ。

時にはお小遣いをもらって50円のブタメンを食べたり、30円のジュースを飲んだり。

めちゃくちゃ貧しかった僕は10円で当たりを引けば大事に取っておいて、

ある日まとめて豪勢に使うなんてことをしていた。

そんな日から20年経った。

 

何気なくテレビを見ていると、

お風呂掃除は今やスプレーをして10分待って、シャワーで流すだけでできるらしい。

ただ実直にバスタブをこすり、床をピカピカにしていた幼い僕がそれを見たらどう思うだろう。

便利な世の中やなあとか呑気に感心するのだろうか。

 

これは子どもたちの役割が失われていることに他ならない。掃除ロボットが人の役割を奪っている。子どもに掃除しなさい!と叱らなくてもその前に掃除が完了している。子どもにお片付けしなさい!と叱らなくてもスマホのアプリを終了させれば1秒足らずでお片付けは完了する。散らばっているレゴブロックやおもちゃは画面の中にある。

 

子どもたちが家での役割を失うことは主体性を失うことと同義である。

しかし、世の中は主体性がない人間に「自己責任」を求める。責任が何たるかを理解していないのに。

 

 

便利な世の中になった。と同時に考えなければならないことも多くなった気がします。