先日、全国学力学習状況調査の結果が出た。
今年度は国語と数学の2教科で行われた。
石川、全4教科1位 全国学力テスト 小6、中3の国語と算数・数学
石川県が高い水準だった。
多分、来年度は全国の校長が石川県に集結し、どんな授業なのか、なぜ学力が高いのか、調査するんだろうと思う。(僕もちょっと気になる。)
新学習指導要領が施行され、主体的な学びがより推進される(ちなみにこれは日本に限った話ではない。)中、ICTの活用やプログラミング教育、高度な言語教育が推奨されている。
この方向性に異論を唱えることはないが、現在の学校教育との不一致には辟易せざるを得ない。
学校教育は学習指導要領が改定されてもなお、変わらぬ根っこの深さがあるからだ。
たとえば僕が中学生の時からなんでやねんと思っている体育座りなんかがそれにあたる。
体育座りてなんやねん。
集会の中で体育座りができないと注意される。
体育座り、懐かしいなあって思った人、してみてくださいね。
どんな動きも許されぬ鉄壁の構え。窮屈すぎだと思いませんか。
日本人の心理に深く根差すのはこの体育座りである。
他の誰かと違ってはならない、右へ倣えの思想が小学校低学年の児童が縦横一寸狂いなく行う体育座りにすべて詰まっている。
体育座りをやめない限り、この深い根っこは変わらない。
主体的にはならない。
明治期の学制から渾渾と我々の遺伝子レベルに刷り込まれているから、誰も体育座りやめましょーなんて言わない。
その整然さこそが美しいという価値観すらある。
なんやねん、号令ってって思うこともしばしば。
教育というのは一歩間違えれば洗脳になり得るとも思っている、というかそれくらい慎重にならねばならないと思っている。
僕たちが本当に教えなくちゃならないことは、「自分で決める」「自分の存在を認める」「他者の存在を認める」この3つ。
新学習指導要領はとても素晴らしいものだと思う。
それに沿うような指導(授業の教科指導はもちろんのこと、それ以外の場面でも)が為されるべきだ。
それと、
変な教師はたまにこんなことを言う。
「誰の為を思ってやってると思ってるんだ!」
この「してあげる」と「してもらう」の関係が誤りだと早く気付こう。
この言葉は何の寄り添いにもなっていないし、むしろ突き放すことしかしていない。
解決策を共に考え、時に提示して決めさせましょう。その行動にどれほど責任を持てるのかを考えさせましょう。
その子を「社会人」として認めないと、「社会人」として育たないのだから。