City Lights

from kyoto

好い加減の酔い加減

先斗町の「伏見蔵」というお店がとてもいいよ。

京都 伏見蔵 南庵
〒604-8015 京都府京都市中京区先斗町通四条上ル鍋屋町212-2
3,500円(平均)2,000円(ランチ平均)
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京都伏見のお酒がたくさん飲める。

 

 

居酒屋のお通しってなんか腹立つよね。

だいたい500円もする。

そんなんケチるなよ、っていうのもわかるけどお通しにパスタ揚げた味のないやつとか出てきたらちょっと腹立つよね。

このお店はお通しが美味しくて、1回目のときは鱧の湯引き、2回目は白菜と豚肉のあっさり煮。

納得できる。

 

 

夏なのに夏なのに、と思いながら。

いつまで続くのだろう?なんて声も。

いつまでも続くし、いつまでも感染者数はカウントされる。

お酒好きとしては辛いとこもあるけどそれ以上に辛く大変な人もおるからなあ、と。

 

(7月の終わりに書いたものでした〜)

新社会人の皆さん、おめでとうございます。

新社会人の皆さん、これから頑張っていきましょう。

とか言うのやめてほしい。

僕は幼い頃から納税していたし学校に通っていたし学級委員になったこともあるし十分社会の一員として機能していた。僕は幼い頃から横断歩道をきちんと守る子どもだったし地下鉄にも乗っていたし公園の掃除をしていた。挨拶も愛想良くなくともしていたし、公衆電話で電話をかけることもあった。

社会人をしていた。

 

 

そもそも社会人というネーミングが好きじゃない。

社会の役に立つことを前提にしている気がする。

学校では「将来、どんなことをして社会の役に立ちたいですか?」みたいなことを平気で尋ねる。社会の役に立つことはめちゃくちゃ立派やと思うけど、社会の役に立たない=悪ではないことをきちんと教えてあげるべきやと思う。

 

文学部に入りたいと言えば、「就職どうすんの?」とか「文学ってなんの意味があんの?」とかちょっと言われたことがある。この人何言うてんねやろ…ってそのときは思っていた。

 

「社会人」というイデオロギーがいかに固定的で窮屈なものか。

無意味なものは悪なのだろうか。そんなことはない。

僕たちは日々、無意味なことを繰り返し行ってきたはずだ。

その無意味さを愛してやまないはずだ。

恋人のことを変なあだ名で呼ぶ人もいるはずだ。

わざと遠回りして家に帰る人もいるはずだ。

毎日月を観察する人もいるはずだ。

無意味を愛せば愛すほど僕たちは生きることを実感できるはずだ。

 

これは負け犬の遠吠えではない。

僕たちが生きることへの問題提起だ。

 

9月の異名は「長月」

調べてみると「夜長月」が略されて「長月」になったみたいです。いいね。

根っこが深い

先日、全国学力学習状況調査の結果が出た。

今年度は国語と数学の2教科で行われた。

 

石川、全4教科1位 全国学力テスト 小6、中3の国語と算数・数学

 

石川県が高い水準だった。

多分、来年度は全国の校長が石川県に集結し、どんな授業なのか、なぜ学力が高いのか、調査するんだろうと思う。(僕もちょっと気になる。)

 

新学習指導要領が施行され、主体的な学びがより推進される(ちなみにこれは日本に限った話ではない。)中、ICTの活用やプログラミング教育、高度な言語教育が推奨されている。

この方向性に異論を唱えることはないが、現在の学校教育との不一致には辟易せざるを得ない。

学校教育は学習指導要領が改定されてもなお、変わらぬ根っこの深さがあるからだ。

 

たとえば僕が中学生の時からなんでやねんと思っている体育座りなんかがそれにあたる。

体育座りてなんやねん。

集会の中で体育座りができないと注意される。

体育座り、懐かしいなあって思った人、してみてくださいね。

どんな動きも許されぬ鉄壁の構え。窮屈すぎだと思いませんか。

日本人の心理に深く根差すのはこの体育座りである。

他の誰かと違ってはならない、右へ倣えの思想が小学校低学年の児童が縦横一寸狂いなく行う体育座りにすべて詰まっている。

体育座りをやめない限り、この深い根っこは変わらない。

主体的にはならない。

 

明治期の学制から渾渾と我々の遺伝子レベルに刷り込まれているから、誰も体育座りやめましょーなんて言わない。

その整然さこそが美しいという価値観すらある。

なんやねん、号令ってって思うこともしばしば。

 

教育というのは一歩間違えれば洗脳になり得るとも思っている、というかそれくらい慎重にならねばならないと思っている。

 

僕たちが本当に教えなくちゃならないことは、「自分で決める」「自分の存在を認める」「他者の存在を認める」この3つ。

新学習指導要領はとても素晴らしいものだと思う。

それに沿うような指導(授業の教科指導はもちろんのこと、それ以外の場面でも)が為されるべきだ。

 

 

 

それと、

変な教師はたまにこんなことを言う。

「誰の為を思ってやってると思ってるんだ!」

この「してあげる」と「してもらう」の関係が誤りだと早く気付こう。

この言葉は何の寄り添いにもなっていないし、むしろ突き放すことしかしていない。

解決策を共に考え、時に提示して決めさせましょう。その行動にどれほど責任を持てるのかを考えさせましょう。

その子を「社会人」として認めないと、「社会人」として育たないのだから。

深い愛とお醤油

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(中華そば おしたに)

奈良県尼ヶ辻

 

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深すぎるラーメン愛がある。

先日は奈良まで、おしたにさん。

いつもは並ぶらしい。

 

友達のすすめで一緒に行ってきた。

つけ麺も美味しそうやった。

あっそうだ

最近というか、少し前から短歌作るのハマってて、

 

「あっそうだ黒のリップを見かけたら捨てるか煮るか焼くかしといて」

 

これとか好きなんですね

女の子がうちに黒のリップを忘れたらしくて探してほしいって言われて

なかなか見つからんかったんですね

その子も諦めてもう新しいの買うし見つけても煮るなり焼くなりしていいよ、と

そのとき良いなあって思いました

煮るのも焼くのも絶対しないけど

「もうそれどうでもええから」ってのを

そうやって言い表す感覚が良いなあ

 

はじめての短歌(穂村弘)

 

この本、おもしろかったです

 

望み

望み(堤幸彦)

息子が生きているのか死んでいるのか

あなたはどちらを望むだろうか

 

これは綺麗事では済まされない

 

最近見た映画の中ではとてもよかったので紹介しました。

あるものもないものも

この世にあるものとないものと、

そんな分け方をしていいものかと、

あるでもなく、ないでもない、

その二元的な見方では掴めないもの

 

シン・エヴァンゲリオン劇場版(庵野秀明)

 

エヴァンゲリオンで描かれるのは神殺しである。

己の信仰に槍を突き刺すことの自己矛盾。

僕たちの「本当は日頃から感じているけれど無視していること」へ突きつけている。

「私って誰?」

他者との相対によってしか私という存在を認知できないのならば、

他者の存在しない世界で私は存在し得るのか。

他者はいつまでも他者でしかない。

それがたったひとりだとしても。

 

あなたは誰ですか?

その視界に映る「誰か」はイマジナリーなあなただ。

 

 

エヴァンゲリオンの解説は僕にはできそうにないのであくまで見た感想書きました。

さよなら、すべてのエヴァンゲリオン