City Lights

from kyoto

いちいちのいちいち

仕事の話をすると、自分が阿呆なのではと思ってしまって、あんまりしないのやけど。

 

同窓会のお知らせが来たので、

(無視しても良かったけど、)

生きていることをお知らせしたくなって

欠席の返信をした。

 

同窓会に行くと、まあ90%くらい仕事の話になって、自分が大した人間でないことを思い知り、ただ自己肯定感を下げる結果に終わるので、行かないことにしている。(友達も少ないし)

いちいち、そんなん気にする必要なくて、上を見ればそんなんなんぼでもいるねんけど、そのいちいちが気になる性質やねんな。

プライドもちょっと高いのやと思う。

構造主義的に考えると、それは至極真っ当なことな気がする。

 

現在の今在るところも構造主義の一端に過ぎない。

そうなれば同窓会への出欠も、予定がないのであれば出席することが解釈としては自然なのやけど、まあ。

いちいち欠席で出して、いちいち幹事への謝辞を述べて、いちいちのいちいちを繰り返して、社会の構造からちょっとはみ出したいとかなんとか思てまう。

 

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仕事は変わらず不調やけども、「死にはせんので」というマインドがあればそれなりにやっていける。提出期限は今週末でも、今夜はうどんを啜って、ビールを飲みたいんや。

四国水族館に行ってきた

水族館っていいよね

まず、涼しくていいよね

ということで四国水族館に行ってきた。

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四国水族館は香川県にある水族館。

調べてみると、評判はイマイチらしい。

 

〜〜の景というのが僕は好きだった反面、

水槽の中の生き物は全部何か知りたい派からするとちょっともやもやするときもあり。

ペンギンがめちゃくちゃ好きなので、間近で見られるのが嬉しい。

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グッズもかわいいので、ぜひぜひ

流れゆくもの

国宝(李相日)


www.youtube.com

 

血が流れる。

涙が流れる。

汗が流れる。

息が流れる。

 

雪が降る。

紙吹雪が降る。

埃が降る。

 

同じことの繰り返しのように見えるものは世の中にたくさんあるんやけど、本当は繰り返しではないんやと気づく。

あの舞台で見えたものは何やったんやろうと想像を巡らせても、まあわかるはずなんてなく、それが映画らしいというかあくまでカメラの向こう側なんやと清々しい諦めになる。

国宝というたった二文字に、流れゆくものの質量がはっきりと感じられる。

屋上で舞を舞う吉沢亮ホアキンフェニックスに見えた。(言い過ぎか)

 

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カメラワークがええとこ取りしすぎ感あるの否めへんけども、役者が曽根崎心中よろしく命を賭したのがこの世界を受け入れさせているんやと思う。

今年の1本、と挙げざるを得ない。ぜひ劇場で。

「ちゃんと」

新しい文学のために(大江健三郎)

「ちゃんと」

「しっかり」

「きっちり」

副詞は無数にあって、程度や状態などを表すんやが、その程度や状態の曖昧さが、日本語的な美しさを生むような気もしていて、その匂わせ感というか行間というか、テクストから滲み出るような出ないような、悪く言えば濁っていて煩雑さすら在るそれを、ただ字面だけを見りゃ「ちゃんと」ってなんやねん、と思てまうのも仕方ないんやけど、同時にそこは察してほしいという言語の恣意性に責任を転嫁したりしなかったり。

これほど言葉を尽くしてもなんの生産もなく、ただ読みづらいだけの文になってまうねん。

 

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言葉が構造の中で使われているとふだんの言葉が自分のものかどうかを疑りはじめる。「いただきます」と言わずに、「ぱるるぴぷれ」って言いたくなる。

つい、副詞を含んでしまう。

 

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夏始まりました。始まってます。始めています。始まる。始める。

良いかき氷屋さん、知りませんか?

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斬られる覚悟で

時代劇、ぜんぜん見たことない。

侍タイムスリッパー(安田淳一)

「映画は映画だ」という映画を以前の記事で紹介したんやけど、とっても似ていると思った。

幕末の侍がタイムスリップするっていう設定に引っ張られてコメディ映画の扱いにされてるんがよくわからんくらい「映画らしい映画」やった。

深く考えずに見られるとか時代劇への愛とか、感じるものは人それぞれあるやろうけども、「映画は映画だ」を邦画の解釈でやってみたらこうなった、的な。そんな印象。

 

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演じるとは何なのか。

僕も仕事のときと休みのとき、家族に会うときと友達に会うとき、それぞれの自分を演じているのかも知れないし、どの僕もまことに自分だと言えるのかもしれない。

その人になりきるのが演じるか、その人の真似をするのが演じるか……古来より誰かが某かを演じてはきたのにその本質は全くと言っていいほど言語化できずにいる気がする。

ラストシーンは侍なのか、侍を演じる侍なのか。真剣を持ったからといって侍になれるわけではなく、模造刀だからといって侍でなくなるわけではない。

スクリーンを通して、その人を見る我々は老夫婦と同じ感想を持つだろう。僕たちはどれだけ頑張っても観客にしかなれない。

 

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映画ってやっぱいいよなあ。

カットオオォォォ!!の声が、まだ耳に残る。

映画なら残せる。

初めて観覧車に乗った日のこと

ベイビー・ブローカー(是枝裕和)

観覧車というものに憧れていたことがあった。

何となく高いところが良いとか。でも実際に乗ってみると怖くて。

 

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賛否両論あるやろなあとこの映画を見ながら考えていた。なんやねん、こいつらと言う人と、愛しいなあと言う人と。その人が育った家庭環境とか宗教観とか現在の置かれる立場によって感想が変わるんやろなあと思う。

ただ、「生まれてきてくれてありがとう」というシンプルなメッセージが、良かった。

服を洗う、車を洗う、ボタンの綻びを繕う、どうにか家族っぽくなりたくて、でも家族になれないのは分かりきってて、というか家族ってなんなん?と疑いながら道ゆく彼ら。

命の価値を、生きているの一点に置くのが許されたい現代で、やはりそれは難しいんかなあと、読後はあんまり良くない感じやけど、是枝作品においては終わりがすべてやないんやという心持ちで。

 

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ぺ・ドゥナ好きやねんなあ。

拝啓と敬具を省く日々のこと

握手/井上ひさし

光村図書国語中学校3年の教材になっている、井上ひさしの「握手」は、そのタイトルにもなった握手が物語において重要なメタファーとして機能している。

なぜルロイ修道士は握手をするのか。

これはただの挨拶ではない。日本人孤児とカナダのケベック州生まれの修道士の握手であるからだ。

 

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「ナイン」では正太郎の悪事がただその当人たちの間だけで有耶無耶にされている。

読者の知り得ない、もはや語り手すら知らないこと(理解できないこと)がある。

そんなことを描きながら、読者は知った風になってカタルシスに浸ってしまうというのは、井上ひさしの筆致に脱帽するしかない。

ルロイ修道士と「わたし」の間にある、彼らにしかわからない記号がある。

 

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そういうもんって日常にようあるよね。お手紙のやりとりをする中で生まれた妙な呼び方とか、LINEのやりとりの中でのスタンプのお決まりの流れとか、仲間内しか通じない言葉とか。

キャッチャーがピッチャーに伝えるサインもそういうものの一つ。チョキがスライダー、パーがチェンジアップ。

なぜだか忘れられない。