City Lights

from kyoto

あっそうだ

最近というか、少し前から短歌作るのハマってて、

 

「あっそうだ黒のリップを見かけたら捨てるか煮るか焼くかしといて」

 

これとか好きなんですね

女の子がうちに黒のリップを忘れたらしくて探してほしいって言われて

なかなか見つからんかったんですね

その子も諦めてもう新しいの買うし見つけても煮るなり焼くなりしていいよ、と

そのとき良いなあって思いました

煮るのも焼くのも絶対しないけど

「もうそれどうでもええから」ってのを

そうやって言い表す感覚が良いなあ

 

はじめての短歌(穂村弘)

 

この本、おもしろかったです

 

あるものもないものも

この世にあるものとないものと、

そんな分け方をしていいものかと、

あるでもなく、ないでもない、

その二元的な見方では掴めないもの

 

シン・エヴァンゲリオン劇場版(庵野秀明)

 

エヴァンゲリオンで描かれるのは神殺しである。

己の信仰に槍を突き刺すことの自己矛盾。

僕たちの「本当は日頃から感じているけれど無視していること」へ突きつけている。

「私って誰?」

他者との相対によってしか私という存在を認知できないのならば、

他者の存在しない世界で私は存在し得るのか。

他者はいつまでも他者でしかない。

それがたったひとりだとしても。

 

あなたは誰ですか?

その視界に映る「誰か」はイマジナリーなあなただ。

 

 

エヴァンゲリオンの解説は僕にはできそうにないのであくまで見た感想書きました。

さよなら、すべてのエヴァンゲリオン

一人称単数

一人称単数(村上春樹)

 

ボウイの「I」は「オレ」ってよりも

「私(ワタクシ)」って感じがしていた

 

「一人称単数」は「僕」の物語である

自明ではあるがこれは「僕」にしか語り得ない。

「彼」や「彼女」や「ミドリ」には語り得ない。

 

ならば、言葉を得た僕たちにできることは、

物語を語り直すことである。

誰にも語られなかった「物語」を、

(意図的に語られなかったのかもしれない)

遡行することである。

「一人称単数」が提示するのはごく普遍的な価値観。

私の言葉は私によって紡がれる。

 

 

ワクチン2回目とっても副反応出た。

これからの皆様、気をつけてくださいね。

夏はスイカを食べたくなる。

特に冷やしたスイカ

背骨で語ろう

 推し、燃ゆ(宇佐見りん)

 

あなたの推しは誰ですか?

その推しにどれほど捧げられますか?

 

恋とは違う、遠くから見るファンとも違う、

「推し」という存在

何か事故ったら「悲しい」「可哀想」よりも「心配」な彼ら・彼女ら

3年経てば立派に成長する彼ら・彼女ら

そんな存在を、僕たちは背骨で語っている。

まっすぐに、しゃんと語っている。

 

 

内省的な語りがあるとき心地よく、あるとき居所悪く。

本当の理解は自分でもしていない。

否、できっこないから生きているんだ。

ちゃんと背骨がありゃ生きていけるんだ。

明日は月曜日。

丁寧さ

掃除機買うた。

のは、日々の暮らしを丁寧にしなあかんという思い。

3月の終わりからこの5月に入るまで多忙を極めた。

慣れない仕事が増えた。

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そうそう、香りというのはかなり記憶に残るようだ。

 

 

相変わらず独りの生活ではあるけれど、

もうすぐ節目の歳を迎えるにあたり、

ゆっくりと準備をしている。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」という小説は誰もが一度は読んだのだろうけど

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

 

桜の美しさというのはよく刹那的であるから良いのだと言われる。

散るからこそ美しい。

そんな美学が日本人の意識にあって、

太平洋戦争の神風特攻とかそんな感じ。

 

しかし桜の美しさはそんなもんやない。

大岡信の文章に、染色家の志村ふくみさんの話があって、

桜色の染色は桜の花びらではなく、桜の幹を使うのだという。

ことばの力

ことばの力

それから日本は年度というシステムが4月に切り替わるので、

その季節にちょうど咲く桜は、

出会いの喜びと別れの悲しみを体現しているんだと。

 

桜のもつテクストはこれ以上にもあって、

誰やったか忘れたけど

薔薇はトゲを持ってるから怖さが感知でけるけど、

桜はあんなに美しく咲くのに前触れなく散ってしまう怖さがあって、

それを感知できないのだと。

 

坂口安吾は桜の何を恐れたのだろう。

 

僕たちはいつも目の前の事象にだけ縛られてしまうけども、

実はそこには「ないもの」も必ず存在している。

例えば、よく使われる例として、

「ドーナツに穴はあるのか問題」

ドーナツに穴はあるのか、ないのか、あるのか、ないのか。

「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしているのか問題」

木の倒れた音はしているのか、していないのか、しているのか、していないのか。

 

僕はどちらも「ないもの」の存在があると思う。

思うというか信じている。

経験的に?実測的に?

分からないけど、僕たちには未だ出会わぬ人もいるし、別れ得ぬ人もいる。

桜を見るとなんとなくそんなことを考える。

 

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春、倉敷にて