坂口安吾の「桜の森の満開の下」という小説は誰もが一度は読んだのだろうけど
桜の美しさというのはよく刹那的であるから良いのだと言われる。
散るからこそ美しい。
そんな美学が日本人の意識にあって、
太平洋戦争の神風特攻とかそんな感じ。
しかし桜の美しさはそんなもんやない。
大岡信の文章に、染色家の志村ふくみさんの話があって、
桜色の染色は桜の花びらではなく、桜の幹を使うのだという。
それから日本は年度というシステムが4月に切り替わるので、
その季節にちょうど咲く桜は、
出会いの喜びと別れの悲しみを体現しているんだと。
桜のもつテクストはこれ以上にもあって、
誰やったか忘れたけど
薔薇はトゲを持ってるから怖さが感知でけるけど、
桜はあんなに美しく咲くのに前触れなく散ってしまう怖さがあって、
それを感知できないのだと。
坂口安吾は桜の何を恐れたのだろう。
僕たちはいつも目の前の事象にだけ縛られてしまうけども、
実はそこには「ないもの」も必ず存在している。
例えば、よく使われる例として、
「ドーナツに穴はあるのか問題」
ドーナツに穴はあるのか、ないのか、あるのか、ないのか。
「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしているのか問題」
木の倒れた音はしているのか、していないのか、しているのか、していないのか。
僕はどちらも「ないもの」の存在があると思う。
思うというか信じている。
経験的に?実測的に?
分からないけど、僕たちには未だ出会わぬ人もいるし、別れ得ぬ人もいる。
桜を見るとなんとなくそんなことを考える。
春、倉敷にて