City Lights

from kyoto

一個人としての尊厳

昔、島崎藤村の「破戒」を読んで思ったのは、

「人間という一見一個人として成立する者たちはむしろ群衆としてしかその存在の意義を見つけることができない」

という当時の高校生らしい誤ったものだった。

本当に悪い意味で馬鹿だった高校生の僕は、

その群衆を目覚めさせるものが「異化」であると信じて馬鹿をやっていた。

自転車に乗って誰よりも速く走ることが「異化」なんだ、と。

 

そんな馬鹿だった僕は今も変わらず馬鹿のまま。

あん(河瀬直美)

 

廃れた文化を僕たちはなんとなしに吟味し、

なんとなしに咀嚼し消化する毎日だ。

それに特別な一日をプラスしても

なんとなしに群衆に紛れて死んでゆくだけだ。

群衆に自らが属性を施せば、

なんとなしに一個人としての尊厳が保たれる。

そんな錯覚に溺れている。

抜け出せない、沼のような。

フットワークの軽さと文学

フットワークが軽い

足の運びが軽妙、機敏であるさま。転じて、行動が迅速であったり行動の切り替えがすばやいさまなどを意味する表現。

(weblio 実用日本語表現辞典)

 日本霊異記/今昔物語集/宇治拾遺物語/発心集(池澤直樹編集 日本文学全集08)

 

宇治拾遺物語」は鎌倉時代前期に成立したとされる説話集の一つである。

芥川の「鼻」や「地獄変」などの原典としても有名で、高校古典教材の多くに「児のそら寝」が取り扱われている。

しかし内容はケッコーな下ネタ(というのも小学生が深夜に思いつくようなもの)が多く、当時の仏教的な思想であったり、なんかそういう道徳心を目覚めさせるなんてことはほとんどない。

そんな説話集が読み継がれ、現代にも生きながらえてるという点において、文学はフットワークの軽さが案外肝要なんかもしれへん。

 あちらこちらに顔を出し、あちらこちらの手足で勝負する。

 

 

にしても、この河出の文学全集の面白いこと。

町田康目当てで読んだけれど「今昔物語」、「発心集」ともに傑作であります。

その他、「竹取物語」や「平家物語」もマストバイ。

次は「源氏物語」か。挫折する予感。

いちご同盟

いちご同盟(三田誠広)

いちご同盟 (集英社文庫)

いちご同盟 (集英社文庫)

 

 

そのときは一生懸命に目の前のことに。

そして僕たちは受け入れる準備だって四六時中している。

つつがなく、しおらしく。

現実ってのは5:5の割合で曖昧なもの。

 

いちご同盟に僕も入りたい。

許されないことでも許し合いたい。

公正、理論、哲学さえも共有し、

慰め合い殴り合いたい。

抱き合いなすりつけ合い突き放したい。

矛盾を孕めば孕むほど

僕たちの距離は0に近づいていく。

いちご同盟に期限はない。

カフェにある意味のないフォトグラフィを見た時

形式的なものに何かしらの意味を持たせようと日々邁進している我々に、

やはりカフェにある意味のないフォトグラフィ

(フォトグラフィと言うと意味なさげな感がより深まる気がします)

を見ると、何かしらの意味なんてものは

それぞれの文脈においての恣意的なものであることに悲しくなる

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ここまで読んで「は?何言うとんねん」となったらよく考えて、

形式的なものの無意味さが愛しく感じることありませんか

 

コンビニに入ると店員さんが

「いらっしゃいませ」と言うけども

それは「いらっしゃいませ」の意味を持たない

ただの音の連続なわけで

店員さんは入店した僕たちに言うのではなく、

空中に向かって言う

声でかめの独り言

 

しかしながら僕たちはその無意味な

「いらっしゃいませ」を愛して止まないのだ

カフェにあるその無意味なフォトグラフィと同じように

 

形式的なものが共通の意味を持てないことの悲しさと同時に、

なくてはならなかった無意味さを愛している

店員さんに言う「ありがとう」が

ただの音の連続としての「ありがとう」であろうがなかろうが、

空中に呟いたその独り言を逃さぬよう

言葉と向き合うことの本質がそこにあるのだから

地上と地下と半地下と

搾取する側とされる側

消費する側とされる側

資本主義とはそういうものだ

ピザの箱をいくら丁寧に折り畳んでも

僕らの暮らしは豊かになりゃしない

アメリカをいくら賛美しても

僕らの暮らしは豊かになりゃしない

 

パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ

 

そもそも暴力というものに資本はない

どちら側に立ったとしても

(或いはどちら側でもない「半地下」であっても)

暴力というのはものは絶対的なものだ

恐れられる、忌むべきものだ

相対的な存在が僕たちを僕たちたらしめてきたからだ

 

陽性か陰性か白黒つけたいよな

グレーの奴らが1番怖いからな

南京道路のPRADAの広告前から

三月のまだ寒い南京道路で

マフラーに顔を埋める人々と。

淋しさは深さよりも広さなのだと

そのとき知りました。

誰かと暮らすことがとても難しい僕は

塞がった蟻の巣の中です。

 

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南京道路のPRADAの広告は

薄汚れた空気の中、一層煌びやかだった。

誤りはひとつひとつ正すものだと、

小さい頃に教わったけれど、

すべてが正されるものではないことを

今頃になって気づく。

2021年が始まって10日ですよ。

今日はあんなとこに行こうとか、

うきうきとわくわくが交互にやってくる日まで

あと何日か。

あと何日かを、やっていかなしゃあないわけです。

未来は腐ってもやってくるから。

ピンク色のねこを見た話

昨晩コーラを買いに行ったとき、

ピンクのねこに遭遇した。

遭遇したというのは誇張ではなく、

ほんまにそいつは目の前に現れた。

それからちっさい屁をして立ち去った。

 

 

こんなふうにホラ話をしてから

「あれ、ほんまにこれってあったちゃう?」

と虚構を現実にしてしまえる。

 

 

目の前のものすべてが現実ということはない。

もはや証明のしようがないのは僕たちは現実と虚構の判別ができないからだ。

 

 

怒り(李相日) 

 

 

しかしながら、僕たちはそれでも現実を、世界だと信じていた。

この現実が虚構まじりのデタラメであろうと、そのような二元性の矛盾を受容しつつ、

目の前にピンクのねこが現れたならそれが世界だと信じていた。

 

現実(=信頼)は着々と失われつつある。

やはりピンクのねこはこの世に存在しないのだから。