City Lights

from kyoto

カフェにある意味のないフォトグラフィを見た時

形式的なものに何かしらの意味を持たせようと日々邁進している我々に、

やはりカフェにある意味のないフォトグラフィ

(フォトグラフィと言うと意味なさげな感がより深まる気がします)

を見ると、何かしらの意味なんてものは

それぞれの文脈においての恣意的なものであることに悲しくなる

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ここまで読んで「は?何言うとんねん」となったらよく考えて、

形式的なものの無意味さが愛しく感じることありませんか

 

コンビニに入ると店員さんが

「いらっしゃいませ」と言うけども

それは「いらっしゃいませ」の意味を持たない

ただの音の連続なわけで

店員さんは入店した僕たちに言うのではなく、

空中に向かって言う

声でかめの独り言

 

しかしながら僕たちはその無意味な

「いらっしゃいませ」を愛して止まないのだ

カフェにあるその無意味なフォトグラフィと同じように

 

形式的なものが共通の意味を持てないことの悲しさと同時に、

なくてはならなかった無意味さを愛している

店員さんに言う「ありがとう」が

ただの音の連続としての「ありがとう」であろうがなかろうが、

空中に呟いたその独り言を逃さぬよう

言葉と向き合うことの本質がそこにあるのだから