City Lights

from kyoto

その意識が遠のく前に

EUREKA(青山真治)

 

もしそのときが来たら僕はこの映画を思い出す。

何かを断ち切るように

何かから逃れるように

でも溢れてしまったものは掬って

 

そんなことをして、この映画を思い出そう。

僕たちはいつも前だけを見ているけれど

耳は澄ましておきたいのだ。

 

青山真治監督のご冥福をお祈りします。

素晴らしい映画をありがとう。

リメンバー・ミー

リメンバー・ミー(リー・アンクリッチ、エイドリアン・モリーナ)

 

 

メキシコの死者の日をモチーフに家族を描いた映画。

オスカー長編アニメ賞をはじめ、数々の映画賞を獲得した最早説明不要の大傑作。

日本にもお盆という文化があるのでとてもすんなり受け入れられる。

 

 

家族というのは絶妙な共同体である。

血の繋がり、というとなんだか薄っぺらく

絆、というと作り物のような気がする。

家族の根源は「誰にも代え難い」ことではないか。

ある日家に帰ってきたら知らない男が食卓に座っていて、

「今日はお父さんが仕事で忙しく帰るのが遅くなるので代理で父親やってます」

なんて言い出したらどうリアクションを取ればいいのか。

 

そして、きっとみんな家族の中で「誰にも代え難い」存在であると同時に、

この社会においてもそれを求めている。

10円が大切だったあの日

幼い頃、僕の家での役割はお風呂掃除だった。

毎日お風呂を掃除して、10円を貰っていた。

10円というとラーメン丸1つ。あるいはきな粉棒1つの値段。

その10円たちを握りしめて、「ヒロセ」と呼ばれる駄菓子屋に行くわけだ。

時にはお小遣いをもらって50円のブタメンを食べたり、30円のジュースを飲んだり。

めちゃくちゃ貧しかった僕は10円で当たりを引けば大事に取っておいて、

ある日まとめて豪勢に使うなんてことをしていた。

そんな日から20年経った。

 

何気なくテレビを見ていると、

お風呂掃除は今やスプレーをして10分待って、シャワーで流すだけでできるらしい。

ただ実直にバスタブをこすり、床をピカピカにしていた幼い僕がそれを見たらどう思うだろう。

便利な世の中やなあとか呑気に感心するのだろうか。

 

これは子どもたちの役割が失われていることに他ならない。掃除ロボットが人の役割を奪っている。子どもに掃除しなさい!と叱らなくてもその前に掃除が完了している。子どもにお片付けしなさい!と叱らなくてもスマホのアプリを終了させれば1秒足らずでお片付けは完了する。散らばっているレゴブロックやおもちゃは画面の中にある。

 

子どもたちが家での役割を失うことは主体性を失うことと同義である。

しかし、世の中は主体性がない人間に「自己責任」を求める。責任が何たるかを理解していないのに。

 

 

便利な世の中になった。と同時に考えなければならないことも多くなった気がします。

好い加減の酔い加減

先斗町の「伏見蔵」というお店がとてもいいよ。

京都 伏見蔵 南庵
〒604-8015 京都府京都市中京区先斗町通四条上ル鍋屋町212-2
3,500円(平均)2,000円(ランチ平均)
r.gnavi.co.jp

京都伏見のお酒がたくさん飲める。

 

 

居酒屋のお通しってなんか腹立つよね。

だいたい500円もする。

そんなんケチるなよ、っていうのもわかるけどお通しにパスタ揚げた味のないやつとか出てきたらちょっと腹立つよね。

このお店はお通しが美味しくて、1回目のときは鱧の湯引き、2回目は白菜と豚肉のあっさり煮。

納得できる。

 

 

夏なのに夏なのに、と思いながら。

いつまで続くのだろう?なんて声も。

いつまでも続くし、いつまでも感染者数はカウントされる。

お酒好きとしては辛いとこもあるけどそれ以上に辛く大変な人もおるからなあ、と。

 

(7月の終わりに書いたものでした〜)

新社会人の皆さん、おめでとうございます。

新社会人の皆さん、これから頑張っていきましょう。

とか言うのやめてほしい。

僕は幼い頃から納税していたし学校に通っていたし学級委員になったこともあるし十分社会の一員として機能していた。僕は幼い頃から横断歩道をきちんと守る子どもだったし地下鉄にも乗っていたし公園の掃除をしていた。挨拶も愛想良くなくともしていたし、公衆電話で電話をかけることもあった。

社会人をしていた。

 

 

そもそも社会人というネーミングが好きじゃない。

社会の役に立つことを前提にしている気がする。

学校では「将来、どんなことをして社会の役に立ちたいですか?」みたいなことを平気で尋ねる。社会の役に立つことはめちゃくちゃ立派やと思うけど、社会の役に立たない=悪ではないことをきちんと教えてあげるべきやと思う。

 

文学部に入りたいと言えば、「就職どうすんの?」とか「文学ってなんの意味があんの?」とかちょっと言われたことがある。この人何言うてんねやろ…ってそのときは思っていた。

 

「社会人」というイデオロギーがいかに固定的で窮屈なものか。

無意味なものは悪なのだろうか。そんなことはない。

僕たちは日々、無意味なことを繰り返し行ってきたはずだ。

その無意味さを愛してやまないはずだ。

恋人のことを変なあだ名で呼ぶ人もいるはずだ。

わざと遠回りして家に帰る人もいるはずだ。

毎日月を観察する人もいるはずだ。

無意味を愛せば愛すほど僕たちは生きることを実感できるはずだ。

 

これは負け犬の遠吠えではない。

僕たちが生きることへの問題提起だ。

 

9月の異名は「長月」

調べてみると「夜長月」が略されて「長月」になったみたいです。いいね。

根っこが深い

先日、全国学力学習状況調査の結果が出た。

今年度は国語と数学の2教科で行われた。

 

石川、全4教科1位 全国学力テスト 小6、中3の国語と算数・数学

 

石川県が高い水準だった。

多分、来年度は全国の校長が石川県に集結し、どんな授業なのか、なぜ学力が高いのか、調査するんだろうと思う。(僕もちょっと気になる。)

 

新学習指導要領が施行され、主体的な学びがより推進される(ちなみにこれは日本に限った話ではない。)中、ICTの活用やプログラミング教育、高度な言語教育が推奨されている。

この方向性に異論を唱えることはないが、現在の学校教育との不一致には辟易せざるを得ない。

学校教育は学習指導要領が改定されてもなお、変わらぬ根っこの深さがあるからだ。

 

たとえば僕が中学生の時からなんでやねんと思っている体育座りなんかがそれにあたる。

体育座りてなんやねん。

集会の中で体育座りができないと注意される。

体育座り、懐かしいなあって思った人、してみてくださいね。

どんな動きも許されぬ鉄壁の構え。窮屈すぎだと思いませんか。

日本人の心理に深く根差すのはこの体育座りである。

他の誰かと違ってはならない、右へ倣えの思想が小学校低学年の児童が縦横一寸狂いなく行う体育座りにすべて詰まっている。

体育座りをやめない限り、この深い根っこは変わらない。

主体的にはならない。

 

明治期の学制から渾渾と我々の遺伝子レベルに刷り込まれているから、誰も体育座りやめましょーなんて言わない。

その整然さこそが美しいという価値観すらある。

なんやねん、号令ってって思うこともしばしば。

 

教育というのは一歩間違えれば洗脳になり得るとも思っている、というかそれくらい慎重にならねばならないと思っている。

 

僕たちが本当に教えなくちゃならないことは、「自分で決める」「自分の存在を認める」「他者の存在を認める」この3つ。

新学習指導要領はとても素晴らしいものだと思う。

それに沿うような指導(授業の教科指導はもちろんのこと、それ以外の場面でも)が為されるべきだ。

 

 

 

それと、

変な教師はたまにこんなことを言う。

「誰の為を思ってやってると思ってるんだ!」

この「してあげる」と「してもらう」の関係が誤りだと早く気付こう。

この言葉は何の寄り添いにもなっていないし、むしろ突き放すことしかしていない。

解決策を共に考え、時に提示して決めさせましょう。その行動にどれほど責任を持てるのかを考えさせましょう。

その子を「社会人」として認めないと、「社会人」として育たないのだから。

深い愛とお醤油

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(中華そば おしたに)

奈良県尼ヶ辻

 

r.gnavi.co.jp

 

深すぎるラーメン愛がある。

先日は奈良まで、おしたにさん。

いつもは並ぶらしい。

 

友達のすすめで一緒に行ってきた。

つけ麺も美味しそうやった。